SugarlessMuddy’s diary

本や音楽の感想

片山令子『惑星』と宮沢賢治『イギリス海岸の歌』

有名な絵本『たのしいふゆごもり』の作者と知らず、鮮やかな黄色の装丁に惹かれ手に取った、詩人・絵本作家片山令子のエッセイ/詩集『惑星』は瑞々しい文が溢れ、ノヴァーリスの「すべて詩的なものは童話的でなければならぬ」という言葉がすぐに頭をよぎった。その文章は生活の中でふと手に取るものたちを愛しく祝福するような言葉たちでつづられていく。
 
あたらしいノートへ。このノートの中にたくさんほんとうの形が結ばれますように。それは空の中で結ばれ地上に落ちてすぐに解かれる雪の結晶のように、いつまでも形を残さなくてもいい。雪がただ白いということが見え、白い色の中にしまわれた結晶が、見えない人には見えなくていい。結ばれてすぐ解かれる形の清々しさを祝福する、場所になりますように。
(『あたらしいノートへ』より)
 
片山令子は1949年に群馬県で生まれ、73年に短編集を発表、73年に画家・片山健と結婚し一男一女を設けている。その後多くの絵本・物語を発表し、2018年に亡くなった。
片山の言葉はシンプルで、それでいて主題としたものを柔らかく輪郭を浮かび上がらせるような魅力がある。それらは実際の生活において、自身のこどもと接する影響もあったかもしれない。
 
ふたりのこどもが、あたらしく生まれ出た世界のなかにいて、何かをいっしんに言い表そうとしたその言葉を、わたしは砂漠のなかにわきだした、泉の水のように感じました。我が家はほんとうにその頃、世の中の砂漠に迷い込んで、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりしていた頃だったのです。かわいい言葉が、ざらざらになった喉や胸に落ちていく度に、気持ちがすーとしたものでした。
(『さあ、残っているのは楽しいことだけ』より一部抜粋)
 
様々な情報が付加される前のまじりけのない泉の水のような言葉、それらをすくうような心地よさが、片山の詩やエッセイにもある。
また、片山は自身のこどもの頃、まだ物心がつく前、泉の水を発する前のことを、一枚の写真と当時お世話をしてくれた人の言葉から想像する。当時の自分の原形を。
 
大人がたくさんいる家だった。まん中にやっと生まれて来てくれた子供がいて、まわりには太陽を囲むように大人の惑星がいて、その子を見ながらそれぞれの仕事をしていた。
それぞれひとりひとりが、くっつき過ぎないという引力を持って、まわっていてくれる幾つかの人の惑星を持つ、独立した太陽であること。
こんがらかってしまったら落ちついて思い出そう。静かな、天体としてのわたしを。
(『惑星』より一部抜粋)
 
この本のタイトルとなり、また本の冒頭にこの『惑星』が据えられている構成が素晴らしいと感じる。子供の頃周りにいた人物と同様に様々な回想が引力に引かれた惑星のように立ち現れていき、それらはすべていつもつかず離れずの距離でそこにいたのだと文章に触れる度に思う。
 
この本の中にはまた、片山が好きであったものについての回想が多く登場する。コーヒー、チューリップ、ビートルズデヴィッド・ボウイ稲垣足穂萩尾望都、そして宮沢賢治。鉱石のモチーフや、実際に賢治の故郷である岩手の北上川・イギリス海岸へ旅行をした話が語られている。
 
イギリス海岸。それは岩手県を流れる北上川岩手県中央部を北から南に流れる東北地方最大の河川で、岩手県内の川はほぼ全て北上川水系に属する)の、花巻市西岸にある泥岩層をイギリスのドーバー海峡に見立て賢治が命名した河畔だ。直接その名を冠した作品に、稗貫農学校(現・花巻農業高等学校)の教諭時代に生徒との交流を記した随筆『イギリス海岸』と、詩歌『イギリス海岸の歌』がある。これは1922年、賢治が26歳、妹トシが亡くなった年に書かれた作品だ。
 
Tertiary the younger Tertiary the younger
Tertiary the younger Mud-stone
あおじろ日破れ(ひわれ) あおじろ日破れ
あおじろ日破れに おれのかげ
 
Tertiary the younger Tertiary the younger
Tertiary the younger Mud-stone
なみはあをざめ 支流はそそぎ
たしかにここは 修羅のなぎさ
(『イギリス海岸の歌』より)
 
Tertiary the younger Mud-stoneとは約6000万年前である第三期初期層泥岩のこと。イギリスの白亜の海岸と北上川が地質学的に同じものであり、地理的に遠く離れたイギリスと花巻という土地がこの詩の中で重なり合っている。そこでは青白い泥岩が乾いてひびが入った裂け目に己の心象としての影が差し川を見つめる重苦しい空気が流れる。この詩の中での「イギリス海岸」はイギリスと花巻、6000万年前の地層と今川面を見つめるおれのかげが、距離と時間を超えて8行の詩として重なり合っている。時空間が混ざり合った連続体のような景色がこの短い詩の中に詰まっていることに感動を覚え、まるでSFのようだと感じる。
 
賢治は自身の心象と、時間・空間はアナロジー的なものであると捉えていたふしがあり、『春と修羅』の序では以下のような表現をしている。
 
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
 
-中略-
 
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
 
-中略-
 
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
(『春と修羅 序』より一部抜粋)
 
己の心象は明滅するように境界線があいまいで、それらは記録や歴史、地史というものとともに第四次延長という時空間の連続体の中で混ざり合っているものとしてとらえている。
 
片山令子の『惑星』という本を読んでいると、この詩に似た感覚を覚える。
それは恒星と惑星がつかず離れず一つの天体であるような、地続きの連続体のようなものであるからだろうか。
 
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■参考
小沢俊郎宮沢賢治論集 3 文語詩研究・地理研究(有精堂出版